別府俊幸の自分勝手なオーディオエッセイのページ


目次

1.音が良いって?
“音がよい”か“良くない”かは、誰かが聞いて、その人の感覚として判定されるものです。どこかに絶対的な「音の良さ」の尺度があり、その1次元のベクトルに沿って点数をつけているのではなく、各自が、各自の脳に認識できた音のみを捉えて、各自の脳の中で、各自のアルゴリズムによって比較して判定される感覚です。
言い換えれば、“おいしい”か“おいしくない”か、みたいな感覚でしょう。多くの人に受け入れられる“おいしさ”もあれば、一部の粋人にしかわからない“おいしさ”もあります。が、絶対的な数値としての“おいしさ”の基準はありません。
“音のよさ”も同じです。“音の良さ”、あるいは“音質”を数値として測定できるパラメータは、いまだに発見されていません。
例えば、最新の測定器をもってして測られるパラメータ、最大出力に対するノイズの大きさであるS/N、周波数によるゲインの偏差を表す周波数特性、入出力の非直線性を表す高調波ひずみ、高調波の分布を表すFFT、複数の周波数信号の高調波から生じる相互変調ひずみ、のどれをもってしても、音の“良しあし”を表してはくれません。それどころか、真空管アンプを例に出すまでもなく、広帯域、低ひずみのアンプの音がよい、とのコンセンサスもありません。
 言うまでもなく、測定し、数値化することによって技術の進歩は図られてきました。けれども“音の良さ”を測る方法は、現在に至るまで官能評価しかありません。何らかの測定パラメータが官能評価と相関するのであれば、そのパラメータは“音の良さ”を表すと言えるでしょう。しかし、そのようなパラメータは見つけられていません。ただ、音を聴いて、“良い”と感じるか“良くない”と感じるかの違いでしかありません。
 でも、聴感に頼っているからこそオーディオは面白いのです。
(2010年8月14日)

2.誰でも判定は同じになるか?
絶対的な基準が存在しないのであれば、自分の判定は他人と同じになるか、つまりは、誰でも同じ判定をするかどうか、が問題となります。
私の経験からは、NOです。
私にとっては我慢のできない“よくない音”であっても、それを“良い音”と誉める人もいますし、私にとっての“良い音”を、“良くない音”と感じる人も少なくないと思います。ですが、人にどう聞こえているかは、私にはわかりません。自分で聞こえる範囲でだけ、音を判定します。これは、誰の立場でも同じです。
一例です。
スピーカシステムは、たいてい、帯域分割された2つあるいは3つのスピーカユニットから構成されます。ユニット間の「音のつながり」に注目されることはありますが、多くの人にとっては、ユニットは4つであれ5つであれ、帯域分割された音は空間で1つになり、「1つの音源」として認識されるようです。
四半世紀も前の話です。
その頃私は、6畳のアパートで、38cmウーファと1インチのホーンドライバに、いろいろなホーン(3種類試しました)を取り付け、ネットワークを変えたり、位置をずらしたり、スーパーツイータを持ち込んだり、何とかして聴けるシステムにしようと悪戦苦闘していました。当時は(今もそうかもしれませんが、世間一般のオーディオ・ジャーナルは10年以上見たことがありませんので)、ホーンシステムが最高の音がすると、オーディオ・ジャーナルでは“常識”として記されており、巨大なホーンを備えたリスニングルームが、それこそ羨望の象徴としてグラビア紹介されていました。米国西海岸のJ社やA社のホーンがリファレンスとしてもてはやされ、秋葉原には、いまのゲームショップくらい多くのオーディオショップがあり、その試聴室では、正面のベストポジションにホーンシステムが鎮座していました。
その頃の私は、素直にジャーナルに書かれていることを信じていました。学生だった私は、バイト代のすべて、たしかユニットだけで50万円を超えました、を買い求め、ホーンを買うお金は残っていませんでしたので、最初のホーンは、今は亡きD誌の記事を参考に作りました。指定通りにウッドの回りに石膏を固め、出来映えは悪くありません。
しかし、そのシステムの音は、私にはどうにも我慢ならないものでした。
ホーンの調整は難しいとされていましたので、テクニクスの周波数レベルメータを頼りにレベルを合わせ、ネットワークのクロスオーバーを調整し、ユニット位置を動かし、文字通り、日夜調整に明け暮れました。そのうちに、ドライバーとホーンが合わないだろうと考え、ウッドホーンを入れ替えたりもしました。2回代えました。確か2回目は30万円くらい払いました。しかし、どうしても音は良くなりません。
不満はとにかく、ウーファとドライバーから、別々の音(音源)が聞こえることでした。一人のヴォーカルが、1つのチェロが、2つの別々の音源として聞こえます。部屋が狭いためかと考え、広い試聴室に出かけ、そこで聴かしてもらっても、私にはやはりユニットの数だけ音源が聞こえます。店員にそのことを話せば、「お兄ちゃんの耳がおかしいのだよ」てな応対をされます。どこの評論家先生も誉めてるシステムだよ、と。
4年以上苦闘しました。でも、どうしても音源は1つになってはくれませんでした。
スピーカシステムが大きすぎるから良くないのだ。小さなシステムにすればきっと1つになる。と考えた私は、イギリスの放送局モニタとして名高い2ウエイシステム(の小さいサイズ)を購入しました。16cmくらいのウーファに、3cmくらいのソフト・ドーム・トウイータです。これならだいじょうぶだろう。きっと安心して聴けるだろう、と考えて買いました。
しかし、鳴らしたと同時に、2つの音源が聞こえました。
愕然としました。業界の権威のS誌にも、中堅どころのA誌にも、自作記事の載ってるM誌にも、そんなことは一行も記されてはいません。どの雑誌もモニタスピーカの秀逸さを、(些細な不満は述べられていますが)褒め称えています。ですが、その音は、私にとっては欠陥品でしかありません。
数年後、私の脳は、なぜだか高次のクロスオーバ・ネットワークの音を、別々の音源と認識するらしいことがわかりました。適切に調整された1次のネットワークでは、音源が1つに感じられます。なぜ、そのような普通でない認識をするようになったのかはわかりません。電子ピアノの売り場で、ピアノの音ではなく、3ウェイスピーカの音か4ウェイスピーカの音かを判別できることに気づいたときはショックでした。電子楽器であるとしても楽器です。それを作る人たちには、“ピアノの音”と感じられるに違いありません。けれども、私にはそうは感じられません。
スピーカはあきらめ、それから数年間、コンデンサヘッドホンしか聴きませんでした。
以上の経験(他にもあるのですが、それはまたの機会に)から、私にとって“我慢できない音”であっても、多くの人にとっては“良い音”と感じられることもあるらしいことに気づきました。私にとっては重要な要素が、他の人にとっては気にならない要素ということです。
私にとっての“我慢できない音”をなんとも思わない人たちの意見や評論は、私にはなんの参考にもなりません。ホーンスピーカ(の他にも我慢できない要素は少なからずあります)を聞いて音を判定できる人は、私とは違った種類の音を聴いていると考えていますし、それらの人がどう言おうと、私にはなんの意味も持ちません。
ですのでそれ以降私は、自分の耳で聞いたことしか信じない偏狭なマニアとなってしまいました。
しかしこれは見方を変えれば、他の人にとって重要な要素であっても、私には気にならないこともあるということです。なんらかの客観的な“良い音”があり、誰もがそれを同じように判定しているとは、とても考えられません。誰かが“良い”と言った音であっても、それが自分にとってはもちろんのこと、多くの人にとっても“良い”かどうかは、判りません。また、その逆もしかり。自分が“良い”と感じても、誰もがその音を“良い”と感じる、と決めつけることはできません。
(2010年8月14日)

3.違いは聞こえるか
これも1/4世紀も前の体験です。
ウイーンを旅行していた私は、レストランや酒場の店のドアを開けた瞬間、生演奏なのか電器音響の音なのか、すぐにわかることに気づきました。それも、入り口からは店の奥は見えず、右に折れ、左に曲がったその先の、店の奥で演奏しているところであってもわかります。最初に気づいたお店がそうでした。音を直接に聞いていないのに、スピーカの音か、スピーカを使っていないのかがわかりました。
気づいてみれば当たり前のことですが、スピーカを鳴らせば,どんなユニットであれ、そのユニットに特徴的な音がすべての楽器の音につきまといます。平たく言ってしまえば、すべての再生音に、そのユニットの音がかぶってしまいます。私の脳は、そのスピーカによる「付帯音」を認識していると思われます。ですから、似たような付帯音があれば、スピーカの音だと認識してしまいます。家族の声が、風邪をひいていて,いつもと違う付帯音があればわかります。それと同じです。
この私の脳の認識アルゴリズムは、騙されることもあります。錯視(たとえば、同じ長さの線に矢印をつけると矢印の向きによって長く見えたり短く見えたりする)と同じく、認識アルゴリズムが騙されてしまうのです。たとえば、話者あるいは演奏者の近くにホーンスピーカがある場合、“生”の音であるにも関わらず、スピーカの音に聞こえます。これは、“生”の音に、ホーンの共鳴音が付帯されるため、電気音響の音だと誤認してしまうと考えられます。
昔、「生演奏と再生音の区別はできない」との主張を読んだことがあります。どこかのホールで聴衆を集め、生演奏を途中から録音した音にすり替えたのだそうですが、それに気づいた人がいなかった、との「実話」まで語られていました。この「実話」が本当にあったことなのか創作なのかはどうでも良いことです。が、かりに本当だとしても、スピーカユニットの音を認識できない(認識することに価値を見出していない、あるいは、認識できるアルゴリズムを脳内に持っていない)リスナーを何千人集めようと、生演奏と再生音の違いを認識できるはずはありません。
家族の声を知っていれば、風邪をひいて、いつもと違う声がすれば、風邪をひいたとわかります。しかし、知らない人であっても、つまりは初めてその人の声を聞いたときであっても、風邪をひいているのではないかな、と思うことがあります。これは、何人もの風邪をひいた人の声を聞いた経験から、風邪ひきに共通する声の特徴を脳が認識し、その共通する特徴が聞こえたと脳が認識するからです。スピーカ(あるいはクロスオーバ・ネットワーク)に特徴的な音を記憶していて、初めての店のドアを開けた瞬間にその音が聞こえれば、それはスピーカの音だと認識できます。ですから、スピーカの音を知っている人には違いが聞こえますが、知らない人には判らなかったとしても、不思議はありません。(もちろん、知らない人であっても判ることもあります)。
あるPAエンジニア氏から、こんな話を聞きました。「自分の会社には十数種類のマイクロフォンがあるけれども、ヘッドホンでモニタすればどれを使っているか判る」。これも、それぞれのマイクロフォンの音を聞き覚えていれば当然のことと思います。私の部屋には2種類のお気に入りのトウイータがありますが、どちらが鳴っているか私には区別できますし、何種類か並べられても、慣れたソースで一度聞けば、どれが鳴っているか識別できるでしょう。
不幸なことに私は、スピーカユニットの音の違いや、半導体素子の音の違いなど、いろんなことを知ってしまいました。ですので、いろいろなところでそれらの音が聞こえてしまいます。マイクロフォンの違いがわからないのは幸いです。知らないことは永久に知らないでいたいと願っています。
私の脳が、電気音響の音だと認識できない再生音が得られれば、それは私にとっては“生”の音と同じです。何とかして、私の脳を騙してくれる音が出せないかと考えています。
(2010年8月14日)

4.再生音を変化させる要素
 およそすべてのこと、何かを変化させると再生音は変化します。
電源ケーブルでも、スピーカ端子でも、基板の材質でも、ヒューズでも、OPTはもちろんのこと同じ容量の電源トランスでも、キャパシタでも、トランジスタでも、ヒートシンクの形でも、回路方式でも、抵抗値でも、そしてケースでも、何かを代えると、たいていは音も変わります。
 では、「音を変える」とはどういうことなのでしょうか。
 私には、なんらかのパーツ(あるいはアセンブリや回路構成)に固有の音が、再生されるすべての音に付帯する、そういう現象に聞こえています。このパーツ固有音は、ヴォーカルであろうとトランペットであろうと、パーカッションであろうと、すべての楽器音に覆い被さり、ひどい場合には、ディテールをすべて覆い隠してしまう、と感じています。回路中にキャパシタを挿入すれば、そのキャパシタの音が、クラシックであれロックであれジャズであれ、すべてのソースに付帯します。この素子やアセンブリによる固有音を、できるだけ附加させたくない、と常に考えて設計します。
 たとえば真空管があります。私にとって真空管とは、すべてにグリッドやプレートの構造や材質による「響き」がつきまとう音です。何を聞いても、単調な共振性の音、グリッドやプレートが“ビーン”となる音が被さっています。これは、どんな真空管でも聞こえてしまいます。
 それに対してトランジスタは、“ビーン”と響く共振音はありません。その代わりに、音が瘠せて聞こえるような、細かいところまで再生し尽くしていないような音があります。そのどちらが私の好みにあってるか、であり、トランジスタのアンプにすればすべて解決するような単純なことではありません。
 ですので、パーツの組み合わせによる音作り、は私にはありません。「AのパーツはBと組み合わせれば良いがCとは相性が良くない。だけどDのパーツはBよりもCと組み合わせた方がよい。」などの議論です。この種の議論は、聴感的な周波数特性(数字には表れないけれども、低音が出ているとか高音が足りないとか感じること)だけを聞く人たちがするのではないかと思います。私には、AのパーツにはAの固有音が聞こえ、BのパーツにはBの固有音が聞こえます。AとBとCとDで、どれがいちばん気にならないか、がポイントであり、AとCを組み合わせた時にAの固有音が聞こえなくなった経験はありません。
 同様に、あるパーツやアセンブリや回路構成の固有音を、別の方法で改善できる、との主張にも同意できた経験がありません。「○○回路を使えばすべて良くなる」式の議論です。私には、回路構成をどう変えようと、パーツの音はパーツの音として聞こえます。どんな優れた電源回路であっても、電源トランスや整流キャパシタの固有音を消してくれることはありません。さらに言えば、この種の主張をする人たちは、回路構成以外には音を変える要素はない、あるいは、回路構成以外の要素は回路構成でカバーできるほどわずかだ、と信じているようにも思えます。
(2010年8月14日)

5.音は聞かなきゃわからない
 20歳くらいまでは、「○○すれば音がよくなる」とのジャーナルの記事を信じて、試みていました。カートリッジのシェルリードは○○がよいとか、インサイドフォース・キャンセラで音が変わるか、ステップアップトランスかヘッドアンプか、レコードの界面活性剤はどうか、接続ケーブルは何がいいか、思い出すかぎりでも、いろいろなことをやっていました。
 幸いなことに、お金はありませんでしたが時間はいっぱいありました(いまは時間がありません!)。さらに幸いなことに他に趣味もなく(いまは他にも出費がいろいろ!)、一人暮らしでしたし、すべての時間を注ぎ込んでいました(ネットもゲーム機もありませんでした。つまり、他にすることがありません)。
 そのうちに、これらの記述を追試した結果が3通りになることに気づきました。1つ目は、記事の通り、なんらかの改善が聞こえる場合です。「接点に○○接点復活剤をつけると音がよくなった」ような気がします。「おお!××先生の言うとおりだ」と以後、その××先生の書かれることは、片っ端から追試したくなります。ところが、××先生のお勧めの中にも、何度試みても音がよくなったと感じられないケースがあります。これが2つ目です。いまなら、「××とは路線が違うのだ」と片付けますが、疑うことを知らないまじめな青年は「うーん。自分の耳が悪いんだ」と思っていました。
 ところがところが、悪く聞こえる場合はまだいいのです。どう試みても、音の違いが聞こえない時があるのです。これが3つ目です。でも、この場合ほど、それらしい理由が語られています。説明を読めばいかにも「△△をすれば音がよくなる」ように思えます。しかし、私には何度試みても違いが聞こえません。なぜにまじめな青年だった私が「△△先生はすばらしい耳の持ち主で、私には聞こえないことが聞こえるのだ」と考えないで、「△△の野郎、ホントに聞いたのか?」と疑うようになったのかはわかりません。
 ある人が「耳で聞いているのではなく、理論的に考えただけで音が聞こえている」と評していましたが、なかなか見事です。「○○すれば音がよくなるだろう」と考えて試みるのですが、もう、試みた時点では「絶対によくなっている」との信念が育っています。あるいは、育ちすぎて「聞かなくても良くなったことはわかっている」となっているのでしょう。学生教育にたずさわるようになってわかりましたが、“考えただけで試さないで結論を出す”学生は少なくありません。“試してみて、考えが的を得ていなかったことを認識して、考え直す”ことができるようになれば、一歩成長しています。30年前のオーディオジャーナルには、成長できなかった論調が少なからずありました。
 私自身は「○○すれば音は良くなるはずだ」とは考えません。30年前はそう考えていましたが、幸いなことに、何かを試みれば「どうなった?」とすぐに聞きたくなるせっかちな性格でした。で、聞いてみるとほとんどはがっくりです(いまでも同じです)。私が考えるようなことで音が良くなることは10のうちの2つか3つでしょうか。あとの4つ5つは悪くなっています。さらに、違いが聞こえないことも少なくありません。残りの3つくらいは、どっちでも同じような音です。
 ですので、いまは「○○を変えれば、音はどう変わるか」と考えて試みます。試みた結果、良くなって聞こえる要素があればそれを次に組み込み、良く聞こえなければ無視する。そして、また他を試みる。その作業を何度も何度も繰り返すことしか、音を作る方法を知りません。
 私の説明は“根拠を示さない現象論”なのだそうですが、当を得た指摘です。私自身が、聞いてみて、良く聞こえたことの積み重ねしかしていないのですから、そこに理由を説明できません。何十個ものトランジスタを聞いて「チップ面積が大きくなればなるほど音はぼけてくる」と信じるようになりましたが、なぜ、そうなるのかはまったく説明できません。“根拠を示さない”のではなく、“根拠を示せない”のです。
むしろ“理論的”に考えることは、音を良くする可能性を狭めることにもなりかねないと考えています。たとえば「カーボン抵抗より金属皮膜抵抗がローノイズだから音がよい」と決めてしまえば(ひと言つけ加えると、なぜローノイズ=音がよい、かがわかりませんが)、カーボン抵抗を試すチャンスが狭まります。しかし、金属皮膜抵抗よりも良い音のするカーボン抵抗は少なくありません。
自分の部屋で聞く音を良くする。これだけを目的としていますので、その可能性の芽をできるだけつぶしたくないと考えています。
(2010年8月14日)

6.試聴するソースについて
 「何が録音されているかわからないから、他人が録音した音源では正しい判定ができない」との主張があります。一見もっともなようです。もしも自分が録音した音源が、他人が録音した音源よりも、より感度良く、音の微細な差を聞き分けさせてくれるのであれば、この主張は正しいようにも思えます。
録音された現場で同時に聞いていた「記憶」があり、その記憶と再生音を近づける作業ができる。この点では、自分で録音したソースの方が、CDなどの市販ソースよりも“原音”との差をわかりやすくしてくれるかもしれません。人の声と、それをマイクで拾ってスピーカで拡声すれば、音は相当に違います。この方法、すなわち、もともとの人の声と、スピーカの音をすぐに比較できるのであれば、再生装置のクオリティを向上させるのにも役立つでしょう。わざわざ録音しなくても、原音で比較できるのですから。たとえばアンプの開発にも(その時にマイクやスピーカの音は含まれてきますが)、大きな進歩をもたらす開発法となるに違いありません。
しかし、そうではありません。
この主張に反論しますが、私は、何が録音されているかわからないソースだけを使って、素晴らしいシステムを作り上げたマニアを幾人も知っています。しかしこれは不思議なことではないと考えます。どのようなソースを試聴に使ったとしても、再生する際、すべてのソースに、そのシステムの固有音がプラスされます。何かを変更すれば、どのようなソースを使ったとしても、その変更したところに固有の音が附加(あるいは除去)されます。その固有音を聞き分けられるかどうかが、比較試聴のポイントです。
同じ2つの音を比較したとしても、すべての人が同じ判定をするわけではありません。ある人はAがいいと言い、ある人はBだと言うでしょう。また、ある人は、差そのものを判別できないでしょう。つまり、何が録音されているかではなく、聞く人がどれだけの判別能力を持っているか、がポイントなのです。
 私の場合、何が録音されているかわからないとしても、良く聞いているソースであれば正確(日を改めても、別のソースを使っても、あるいは他のアンプを使っても、判定が変わることがないという意味で“正確”と書きました)に、音を判定すると思っています。ところが、知らないソースを聞かされただけでは、音を判定することも難しくなります。これは、良く聞いているソースでは、どこをどう変えれば、どのような音に再生されるかを記憶しているため、その記憶をリファレンスとして、その差を調べているからと思われます。
よそへ行き、初めてのソースを聞かされても、何をどう判定して良いか、なかなかわかりません。あるところでの経験ですが、ふだん聴かない音楽のライブ録音を聞かされ、最初は何もわかりませんでした。ところが、演奏が終わって拍手の音になった瞬間、システムの音の特徴がつかめた経験があります。拍手の音は、いろいろなところで聴いたことがあります。コンサートホール、教室のような部屋、屋外のスタジアム、残響時間の長い教会、それぞれに記憶があります。この記憶の音と、そのシステムから出てくる音の比較が可能となって初めて、音の差がわかったのだと考えます。まさに、自分で録音した音源を使って比較する状況と思います。
 しかし、わざわざ録音しなくても、ふだん聴いている慣れたソースで聞けば、同じようにわかります。
「何が録音されているかわからないから、他人が録音した音源では正しい音の判定ができない」との主張を否定はしません。その主張をされる人たちは、他人の録音したCDと自分の録音とで、判定が異なる経験があったに違いありません。それもまた、不思議なことではありません。ただ、その主張を、誰にでも当てはまると主張するのは無理だ、と考えています。

 ソースについて述べたついでに、比較方法についてもひと言書き添えます。
 「比較は、瞬時に切り替えなければ正しくできない」との主張を聞いたことがあります。おそらく、この意見を主張する人は、音の記憶ができない(あるいはできないと決めつけている)と思います。それをとやかく言うつもりはありません。が、私を含め、多くの人は音の記憶ができると感じています。
「何年も前、××で聞いた○○スピーカの音はこうだった」との会話は、オーディオマニアであれば普通にするでしょう。○○スピーカの音の記憶は、時間とともに美化されているかもしれません。時には、何年も経て再会(再聴?)した音が、記憶と違っていることもあるでしょう。しかし、その音を聴くたび「ああ、この音だ」と記憶を確かめることもあるでしょう。 録音現場の音を記憶し、その音をリファレンスに再生音のクオリティを追求する方法でも、市販ソースを使って追求する方法でも、昨日、あるいは先週よりも、良い音にしようと努力している点では同じです。その時、先月の判定と今日の判定が異なるのであれば、同じ方向に進むことはできないでしょう。しかし、多くのマニアは、それぞれの好みの方向に、いつも向かっています。少なくとも、音の好みはそう簡単には変わらないと思います。瞬時に比較しようと、3日経って比較しようと、同じ判定をするからこそ、音の傾向が生まれるのでしょう。

 積極的に言うのなら、録音された音楽を最良の音で楽しみたいのですから、何が録音されているかわからないのであっても、その聞きたいソースで、最良の再生音が得られるように工夫することは正攻法に違いありません。多くのマニアが市販ソースだけを使って素晴らしい再生音を得ているのは、“正攻法”を極めているからだと思います。
(2010年8月14日)

7.私のめざす音
私は、自分の部屋で、自分の嫌いな音を聴きたくないと考えています。自分のめざす音がどんな音なのか、何度も何度も考えましたが、好きな音を聴きたいと考えているのではなく、なんとか嫌な音を取り除きたいと努力してきたようです。すべてのパーツは、その固有の音を再生音に付与します。この付帯音をできるだけ取り除きたい。少なくとも、我慢のならない音のするパーツは、絶対に使いたくない。と、考えています。

本当に欲しい音は、コンサートホールと錯覚できるような音です。
コンサートには、良く出かけます。どこで聞いたとしても、“生の音”には、アンプやスピーカの音はありません。それらの音を無くすことができれば、私にとって「再生音」は“生の音”と区別できなくなるはずです。
そのためには、私に聞こえない固有音を持つパーツやアセンブリ選別し、私の聞こえない固有音を持つ回路を探しあててそこに使えば、私にとって“生の音”と同じ音のする「再生音」が得られるのではないかと思っています。
残念ながら、1つ1つ探すしか方法はありません。とても死ぬまでに巡り会えそうにありませんが。
(2010年8月14日)